『現代社会理論研究』第8号,214〜216頁,現代社会理論研究会(発売:人間の科学社),1998年11月.

ラカン派を中心とした精神分析の知見による社会学の試み

【書評対象書】樫村愛子著『ラカン派社会学入門』世織書房,1998年,340pp.,\2900+税

周藤真也 

 樫村愛子氏の著書『ラカン派社会学入門』は、いま注目される社会学書のひとつである。本書は、副題に「現代社会の危機における臨床社会学」と銘打つように、混沌とした現代社会と現代社会学の状況において、人間の生を捉える新たな視座を提供していくことが目論まれている。この議論を根底で支えているのが、ラカン派精神分析の間主観性論であり心理療法とその技法である。
 本書は、論文集の形態をとり、3部構成で計7篇の論文(付論を含む)が収録されている。「第1部 他者と自己存在」では「自己啓発セミナーの危険性」および「性的他者とは何か」の2篇、「第2部 コミュニケーションの構造」では「コミュニケーションと主体の意味作用」および「共有知問題とゲーム理論」の2篇、「第3部 表象と歴史・社会」では「『源氏物語』と中国/日本」と「付論 『源氏物語』における「王権」:書評『王朝の性と身体』」、「戦争と表象:ボスニアを巡る三映画作品について」の3篇が収録されている。なお、各論文は、既発表のものを収録した3篇以外は、書き下ろされたものであるのだが、本書に収録されなかった内容的に重複する論文がいくつか公刊されているので、あわせて参照されることをおすすめする。
 本書はラカン派を中心とした精神分析の知見を基盤にしながら多岐にわたる内容を扱っており、限られた紙幅の中で各論を詳細に検討をすることはできない。そこで、本書評では、本書収録の7篇の論文の中で、本書の半分近くのページを割き、主論文の座を占めている論文「コミュニケーションと主体の意味作用」をもとに、樫村氏の提示しようとしている「ラカン派社会学」を検討することにしたい。
 本書の原理論として位置づけられているこの論文において、樫村氏は「コミュニケーションとは何か、いかにして可能か、という問いを根底的に構築すること」(73頁)を目論んでいる。樫村氏によれば、従来の社会学におけるコミュニケーションについての多くの議論は、コミュニケーションが可能であることは自明でそのメカニズムは遡れないものと想定していて、原理的な問題について全く答えてはいないという。ハバーマスは、コミュニケーションを可能にする「道徳的力(信頼)」を先験的なものとして置いてしまう。ルーマンは、認知と言語を連続させる枠組みによって、主体と言語の間にあるコンフリクトの構造を排除してしまう。ミードは、「態度取得」という構造を提示するが、その構造は常に既に可能な「生得的」なものとされており、他者との相互作用の中でそれが意識化されることを理論的に取り出すことには成功していない。ゴフマン、ベイトソンのコミュニケーションの中での意味のやりとりについての分析は、意味の非合理性をメタメッセージレベルに回収してしまい、メッセージレベルを手つかずにしてしまう(と同時に、樫村氏はゴフマンの「儀礼論」に他者への敬意と距離の確保に基づいたコミュニケーションとして理論的可能性を見出している)。会話分析は、コミュニケーションを構成しているシステムを社会的組織の具体的方法として照らし出しているけれども、そのシステムの来る所以に遡れない。
 こうして樫村氏は、社会学における従来のコミュニケーション論の限界を踏まえて、それらに対する代替案としてラカン派精神分析の理論枠組みによるコミュニケーションの原理論を展開する。この樫村氏の真骨頂たる議論を簡潔に要約すれば、他者のもとで成立した主体が、他者(=対象)を通じて言語と結合し、言語が主体にとって「内的な」ものとなることによってコミュニケーションが可能になるということだ。樫村氏によれば、主体がコミュニケーションを行うのは、根底的には他者が欲動の対象であるからであるという。主体にとっての「欲動の対象」たる他者は、直接的な他者からは自立した幻想的対象として固定、構造化され、主体の存立を恒常的に可能にする。こうして成立した主体と他者とのコミュニケーションは、大部分において意味作用によって成立している。そして、意味作用を構成するシニフィアンの相互結合は、もともといくつかのイマージュあるいはイマージュと声を、他者を主体が無前提に受け入れるのと同じ仕方で「前反省的」に受け入れ、結合することであり、原初的には他者の受容、他者への依存の上で構成されるものであるという。こうした、意味作用における元来もっているシニフィアンの多層的、両価的結合を可能にするものを樫村氏はラカンにならって「隠喩的作用」と呼んでいる。
 樫村氏の展開するコミュニケーションの原理論は、この「隠喩」概念に沿って組み立てられている。原初的な意味作用は構造化・高度化を経てやがて一義的で厳密なものとなっていく。それは、シニフィアン内部の相互回付・結合に意味作用が完全に閉じていく過程であり、主体と言語が分離していき自分の存在とは別なものと感じられるようになっていく過程である。だが、意味作用を可能にする原初的な曖昧さは、幻想的対象の等価物として機能して主体と言語を再結合可能にし、そこで語られることが「自分自身のものである」ための積極的な効果をもつ。樫村氏は、このような幻想的効果をもつ意味作用の「短絡・留保」は固有の「隠喩」であるという。「隠喩」とは意味作用内部で固有に駆動する症候であり、意味作用内部に出現した欲動(の対象)であり、コミュニケーションはこの最初の局面を意味作用内部に回帰させる作用を担っている。だが、「隠喩」の作用は、主体と言語を結合するそのような幻想的作用に留まらず、純粋な意味作用自体にかかわるものである。隠喩なしには「言表行為」も「言表内容」も可能ではない。
 このようにして樫村氏は、コミュニケーションの原理論の新たなひとつのモデルを提示する。樫村氏の議論は、対象の素朴な自明性を超克し、高度な抽象化と適度な具象性のもとに構成されており、ひとつの洗練されたコミュニケーション論になっている。これは、樫村氏がラカン派精神分析に依拠することによって可能になってところが大きい。ラカン派精神分析に依拠する樫村氏の主張は、コミュニケーションを根底的に支える機制は「隠喩」であり、また主体とは「隠喩」によって構成されているということである。このモデルは、コミュニケーションが可能であることを自明視し、精緻な議論をしてこなかった社会学におけるコミュニケーション論、いや社会学理論全体に対して新たな視点を与えてくれる。樫村氏は、コミュニケーションの原理的水準を問い、ラカン派精神分析に依拠しながら新たなる社会学理論の可能性を模索する。樫村氏の議論はコミュニケーション論を超えて「社会(秩序)はいかにして可能か」という社会学の根本的な問いへと繋がっていく。
 しかしながら、私にはひとつの疑問が残る。確かにラカンのいう「隠喩」とは、コミュニケーションを根底から支える要素をもっており、主体と言語を結合する。この意味で、樫村氏の議論は、「コミュニケーションはいかにして可能か」という問いの答えを提供することに成功している。そしてこの成功は従来の社会学におけるコミュニケーション論に対してひとつの境地を切り拓いたものであることはいうまでもない。だが、ラカンの「隠喩的作用」とは、これとはまったく逆の事態を指し示しうるものではなかったか。すなわち、「隠喩」とは意味作用内部で固有に駆動する症候なのであって、「幻想的効果」のままコミュニケーションの不可能性を決定づけるものともなりうる。このようにコミュニケーションの両義性(可能性/不可能性)とそれを媒介する「隠喩」の作用から、「コミュニケーションはいかにして可能か」という問いの解を抽出することはもちろん間違いではない。けれども、そのときコミュニケーションの不可能性はどこにいくのだろうか。樫村氏は、これをコミュニケーションの困難や、現代社会における主体の危機に見ているように思われるが、果たしてこれらはコミュニケーションの不可能性に還元されるだけなのだろうか。
 「コミュニケーションはいかにして可能か」という樫村氏の立てた原理的な問いが重要なものであることはいうまでもない。しかし、この問いに忠実に解を提供しようとする限り、最後の最後でコミュニケーションが可能であるということを解(説?)かなければならなくなってしまう。樫村氏は確かに対象を素朴に自明視することを超克しているけれども、結局のところコミュニケーションが可能であるというその形式を先験的なもの(つまり解くべき問いの解)としておかざるを得ない。私が危惧するのは、このことによって社会学の問うことのできるものを隠蔽してしまい、それを永遠に闇の中に葬り去ってしまいかねないことだ。これは、ラカンをそして精神分析の知見を社会学的な想像力のもと置き換えるときにはらむ問題でもある。精神分析の知はそれが臨床の知であることとの深いかかわりのもとに〈社会的なもの〉を先取りにして自らのうちに確保してしまう。これによって可能になる精神分析の知の強さと絶対性から私は距離をとる必要性を感じてしまう。
 こうした樫村氏の議論は、ご自身も「精神分析理論全体への依拠」とあとがきに明記されているように、ラカン派というよりもむしろラカンから転回して精神分析の方へと向いているべきというだろう。自己啓発セミナーや性的他者についての議論は、精神分析と密接な関係にある心理療法をもとにしているところも大きい。そしてこうした前提で読むと、第三部における源氏物語やボスニアを巡る映画を題材とした表象研究にも、その根底には精神分析の知があることが感じられる。また、源氏物語を女性性を基軸として分析するその視座には、精神分析とフェミニズムの「幸福な結婚」を目指している樫村氏の意図も酌んでおかなければならない。
 最近、著者は活発な研究活動を展開されている。本書にも収録された論文「共有知問題とゲーム理論」では、ゲーム理論がどのような社会学的想像力のもとにあるのかが見事に描き出されているし、論文「言語の成立に関わる『否定』の作用と他者について」(『年報社会学論集』第11号所収、1998年)では、チョムスキー−ワイルデン論争を議論の発端として否定の作用から言語の成立と他者の機能が説明されており、こうした樫村氏の議論は非常に刺激的だ。また、樫村氏は自己啓発セミナーの受講者を始めとした精神世界についてのインタビューにも取り組んでおられ、研究の成果の公表が待たれる。本書の樫村氏によるラカン派を中心とした精神分析の知見による社会学のひとつの試みは、社会学に対して新たな視点と新たな可能性を切り拓くものとしてその意義と意味は大きい。