現代社会理論研究 第11号 307〜311頁 2001年

社会学にとって「臨床」とは何か

周藤真也

書評対象本:
  大村英昭・野口裕二編『臨床社会学のすすめ』有斐閣、四六判、2000年、252頁、1700円
  大村英昭編『臨床社会学を学ぶ人のために』世界思想社、四六判、2000年、260頁、1800円

 近年、日本の社会学界において「臨床社会学 clinical sociology」という言葉を多く目にするようになった。日本社会学会をはじめとしていくつかの学会でテーマセッションが開催されたほか、「臨床社会学」が題された書物が相次いで出版されている(1)。そうした中で、本稿で取り上げる昨年に相次いで出版された2冊、すなわち大村英昭編『臨床社会学を学ぶ人のために』(以下、『学ぶ人のために』と略記)、大村英昭・野口裕二編『臨床社会学のすすめ』(以下、『すすめ』と略記)は、日本の「臨床社会学」の初発の到達点を示すまとまった成果としてあるだけでなく、初学者を念頭においたテキストとして制作されていることにおいて特筆することができるだろう。だが、そうであるだけに、かれらのいう「臨床社会学」のはらむ問題性もまた次第に浮き彫りになってきているように思われる。本稿は、このことについて、これら2冊についで先ごろ出版された『臨床社会学の実践』(野口裕二・大村英昭編、有斐閣、以下、『実践』と略記)(2)にも適宜言及しながら、若干のことがらを論じておくことにしたい。

 「臨床社会学」を考える際、われわれがまず問題にしなければならないのは、「臨床社会学とは何か」という問題である。この問題について、これらの書物の中でも、何人かの執筆者たちが言及している。たとえば、『すすめ』の編者のひとりである野口裕二は、「臨床社会学」でいう「臨床」を「社会学の理論や知見を現場に応用するという意味での『臨床』」と「『臨床』という現場やそこで行われている実践を研究対象とする意味」の二つの意味において位置づけている(『すすめ』i-ii頁)(3)。

社会学の固有を魅力を失うことなく役に立つようにするにはどうしたらよいのか。こうした問題意識から出発するのが臨床社会学です。社会学は役に立つか、役に立つとすればどのように役に立つのか、そもそも役に立つとはどういうことか。これらの問いをつねに問い続けるのが臨床社会学です。(『すすめ』i頁)

 このようにかれらのいう「臨床社会学」は、ある種の現場主義のもとにある。たとえば、大村英昭は、社会学が対象としてきた生活世界の「生活現場に即した社会学理論」を「臨床社会学」として位置づけようとする。

臨床社会学を名のる者は、まずは「人情の機微」にも精通したよき“フィールド・ワーカー”になることを心がけるべきだろう。(中略) 要は、研究者であるより前に、一人の生活者でもあることを十分に自覚し、その生活者としての自分自身をまっ先に調査対象にすればよいだけのことなのだから……。(『すすめ』11-12頁)

 しかし、こうした「臨床社会学」の現場主義もまた、「現実に密着した」という意味程度のものであることを超えて、往々にしてある偏りをみせるのである。たとえば、先にあげた大村は臨床社会学を「死(death)、喪失(loss)、病気(illness)という三つの問題を中心的に扱う社会学」と述べていたという(『学ぶ人のために』viii, 24頁)。この大村の言葉に言及する長谷正人は臨床社会学について「個々の臨床場面における『個別的』な問題としての『病気』や『喪失』という問題に定位しようとしているのではないのか」(『学ぶ人のために』25頁)と述べている。そうした長谷が臨床社会学を「字義どおりに取れば、医療や心理的セラピーにおけるような『臨床』場面を分析対象とした社会学だと考えることができるだろう」(『学ぶ人のために』24頁)というのは、臨床社会学の「臨床」という意味を素朴に捉えたものであるとともに、臨床社会学の偏差を表現している。すなわち、臨床社会学は、しばしば臨床医学や臨床心理学と比定されるように(たとえば『すすめ』i頁)、医療、そしてサイコセラピー(精神療法・心理療法)の現場たる精神医療の影が見え隠れするのである。
 もちろんそれとは逆の志向もはたらいている。たとえば、野口が「臨床」と呼ばれる領域として医療、福祉、教育に言及するように(『すすめ』ii頁)、家族であったり、教育現場であったり、福祉の現場であったり、政策現場であったりを「臨床の場」として捉えようとする志向のもとに、『すすめ』は編集されているものと考えられる。そこでは、「臨床社会学」の臨床とは、そうした現場とともにあることにおける広い意味を指し示すものとして志向されているだろう。しかし、そうした「意味の拡張」は、またその中心にあるものを指し示すものでもあるのではないのか。たとえば、社会学の理論や知見を現場に応用する「応用社会学」として臨床社会学を考えるとき、「診断と処方箋」(『学ぶ人のために』188頁)といった医学的比喩が用いられるのは何故だろうか。あるいは、大村のいうように臨床(clinic)の原義を探り、臨終の床で洗礼を施す牧師の意味に言及する(『すすめ』iii頁)のはよいとしても、そこから導き出されるケア(気遣い)の心は、医療の現場で求められるものと再び接合していくのはいかなることなのか。

 臨床社会学の学問としての存立の根拠は、「臨床とは何か」ということがらにおいて結節している。ここには医学的なことがらがメタフォリカル作用しているようにみえる。だが、これは正確な表現ではない。「臨床の知」を成り立たせているのは、実のところは医学的なメタファーではなく、〈病〉という想像力をめぐるメタフォリカルな作用の方である。
 このことは、「臨床社会学」と社会問題に対する研究との近接性によって実証される。社会問題はまたしばしば社会病理として解決=治療の対象とされてきたことがらだ。あるいは、アメリカにおける臨床社会学の始源としてシカゴ学派に言及される(『学ぶ人のために』48-51頁)のも、「臨床社会学」の最初の講義が、E・W・バージェスによって1928年にシカゴ大学で行われたということだけでなく、藤澤三佳のいうように「初期シカゴ学派は、プラグマティズム哲学を理論的支柱とし、当時の社会問題とその解決に深くかかわっており、広い意味では、それらの調査研究はすべて、『臨床社会学』そのものであったといっても過言ではない」(『学ぶ人のために』48頁)ところにある。  しかし、〈病〉という想像力を「社会なるもの」と結びつけるのであれば、それは19世紀に「社会学」という概念が生まれ出たその根拠でもなかったか。すなわち、オーギュスト・コントによる「社会学」概念の創出の背景として、しばしばフランス革命後の無政府状態について言及される。コントの社会学が、決してその問題を解決する(つまり社会を治療する医師の)位置にあろうとしたものではなかったとしても、〈病〉とともにあることが「社会学」という概念と認識の成立点としても考えられるのではないのか。
 本書の執筆者たちが「臨床社会学とは何か」ということがらに焦点をあてるとき、単純に「臨床」と呼ばれる現場を捉えるだけならば、あるいは単純に「臨床現場をフィールドとし、臨床実践や臨床理論を素材としながら、その社会学的な意味を探っていく」(『すすめ』32頁)だけであるならば、それは社会学にとっての「臨床」のひとつの側面しか捉えてはいないだろう。「現場に即した社会学理論」、「誰かの役に立つ社会学」を志向することは確かに重要であるかもしれない。だが、そのときその「社会学」がいかなる意味において「臨床」そのものでありうるのか、ひいてはそれがいかなる意味において社会学でありうるのかという問題が摘み落とされてしまうのであるならば、果たしてそれを「臨床社会学」と呼んでもよいのだろうか。
「臨床社会学」とは何か? 『実践』の著者のひとり立岩真也であれば、次のように答えるであろう。「『臨床社会学とは何であるのか』という問いはまちがっている。そこで問われている問いはじつは「臨床社会学はなにをするのがよいのか」という問いであり、「臨床社会学は何であるのか」という問いはそれの言換えである」と(4)。 しかしながら、この立岩の断定はある種の「暴力」を伴っている。なぜなら、そこでは「臨床社会学」をしないという可能性が排除されるからであり、そしてそのときかれらのいう「臨床社会学」だけが唯一の臨床社会学としてそれ以外の可能性を排除していくからである。とりあえずのところ、後者の側面についてはよいだろう。何ものかを明示的にするためには、何ものかを非明示的にしなければならない。臨床社会学が何であるのか/何をするのがよいのかを示すためには、臨床社会学の領域をそれと異なったものから区別して示してやる必要がある(5)。そこでは、臨床社会学という指し示しが、臨床社会学ならざるものを排除する場となっていくのは必然的なことである。
 立岩のこの断定が問題なのは、臨床社会学の存立するその根拠に、「臨床社会学をしない」という値が関わってくるからである。大村は、臨床医学を背景に据えながら、臨床社会学をサイエンス(科学)としてのそれと、アート(術ないし芸)としてのそれの区別に置いている。大村は、「サイエンスからアートへ」という図式的な提示をすることには遠慮を示しながらも、アートとしての志向に臨床社会学を置く(6)。
筆者が注目したいのは、執筆者の何人かは、論文の中で「臨床社会学」がいかなるものであるのかについて、あるいは社会学にとって「臨床」とは何かということがらについて、いっさいまたは、ほとんど言及していない(しない)ことである。これらの論考は、いかなる意味において臨床社会学でありうるのか。もちろん、これらの論考が「臨床社会学」を銘打った書物に収められていることにおいて、あるいはこれらの論考が現場に即いており「生活現場の感情を汲みあげる」(『すすめ』8頁)「臨床社会学の公準」に適合することにおいて、われわれの生まれ出づる想像力の下に臨床社会学として捉えることは可能だろう。しかし、そのときに注目したいのは、それらはむしろ臨床社会学ではないという様態を伴うことである。その様態は、決して表には出ることはなく、臨床社会学を陰から支え、臨床社会学を基盤から支える傾動としてあるのではないのか。
 野口は「臨床現場に接近しなければ臨床社会学は始まらない」(『実践』5頁)という。たしかにその通りだろう。しかし、そのような「臨床現場」に接近しなくとも、われわれはすでに臨床現場に接しているのであって、すでに臨床社会学は始まっていることも事実であるのではないのか。そして、大村のいう「生活現場の感情を汲みあげる」というのは、本来はまさにこのようなことであると考えられる。もしそうではないならば、それは生活現場の感情にただ即いただけの「常識以下の社会学」(『すすめ』8,9頁)に転落してしまうことではないのだろうか。
 たしかに先ほど取り上げた立岩の論法は「論理的」である。筆者はこのことを否定しようとは思わないし、むしろ「実践」はそのような「論理的」な形式によって成り立っていることを積極的に認めるであろう。しかし、それは「臨床社会学」の「臨床」に照らし合わせてみるならば、決して「臨床社会学」あるいは「臨床」が何であるかを指し示さない限りないおいて可能であるものだ。したがって、「臨床社会学」に対しては、まさにその「臨床」ということがらにおいて、根本的な否定性が加えられてくる。それにもかかわらず、もし短絡的に「臨床社会学」を行おうとするならば、そのような者は自らの実践において構築するヴァーチャルな空間に住まい、自らが行う「臨床社会学」が括弧つきのものであることを消し去ってしまうことであるのである。
 気がかりなことは「臨床社会学」を定義づけようとする論者たちが、しばしば現場(フィールド)と書斎、理論と実践(介入)、調査と理論、知識と行為といった「使い古された」二分法を用いて説明してくることである。もちろん、ここにはこれらの二分法を用いることによって、これらの二分法を乗り越えようとする意図が含まれているだろう。しかし、そのような意図は、かれらが意図するような「乗り越える」ことにおいてではなく、往々にしてそのような反復して再生することに荷担することではないだろうか。あるいは、それはせいぜい「実践」と言われるもの、「臨床」と言われるものに執着するだけではないだろうか。もしそうであるならば、むしろわれわれは片時も実践から離れることはできないことを規準にし、臨床社会学の不可能性を臨床社会学とするような臨床社会学を構想すべきではないだろうか。
 臨床社会学の「臨床」とは、〈病〉という想像力が社会学を成立せしめるように、〈臨床〉という想像力において「臨床社会学」を成立せしめるものであり、そして決してそれ以上のものではなくただそれのみである。少なくとも私はそのことを大切にしたいと思う。

 最後に、「臨床社会学」に言及する論者が、しばしば医療そして精神医療に対して偏倚することについて一言触れておきたい。医療という領域は、たしかに〈病〉という想像力を喚起される場ではある。しかし、実のところ、医療と臨床社会学とは直接的には何の関係ももたないといったほうがよいだろう。それは、医療から離れて、〈病〉という想像力において、臨床社会学と結びついているだけなのである。そして、このことは精神医学を取ってみるならば至極当たり前のことなのだ。精神医学は決して「病」そのものをみることはなく、その周辺に起きている事態を捉えることができる、また捉えているにすぎない(7)。

 本稿では、「臨床社会学」をめぐる2冊の書物をもとにして「臨床社会学とは何か」ということがらをめぐって論考を展開してきたため、収録された各論文について詳細に紹介、検討することはできなかった。以下、簡単ながら執筆陣と論文の題目を紹介しておくことにしよう。
 『臨床社会学のすすめ』 序章:大村英昭「臨床社会学とは何か」、第1章:野口裕二「サイコセラピーの臨床社会学」、第2章:奥村隆「『存在証明』の臨床社会学」、第3章:樫村愛子:「『自己啓発セミナー』の臨床社会学」、第4章:勝又正直「看護に学ぶ臨床社会学」、第5章:山田昌弘「『問題家族』の臨床社会学」、第6章:稲垣恭子「クラスルームの臨床社会学」、第7章:畠中宗一「保育政策の臨床社会学」、第8章:井上眞理子「政策現場の臨床社会学」、第9章:大村英昭「『死ねない時代』の臨床社会学」。
 『臨床社会学を学ぶ人のために』 序章:宮原浩二郎「思いやりのある手紙」、第1章:長谷正人「セルフヘルプグループの調査実習から」、第2章:藤澤三佳「医療と臨床社会学のパースペクティブ」、第3章:小林多寿子「人生の語りとナラティブ・アプローチ」、第4章:阪本俊夫「覗き趣味とプライバシー意識」、第5章:土井隆義「いじめ問題をめぐる二つのまなざし」、第6章:大村英昭「家族、この宗教的なもの」、第7章:川端亮「新宗教における修行と癒し」、第8章:野田隆「災害対策と地域社会」、終章:大村英昭「人情の機微と臨床的知恵」。

【註】

(1)本稿でとりあげた『すすめ』、『学ぶ人たちのために』の2冊、および『実践』以外には、樫村愛子 1998 『ラカン派社会学入門――現代社会の危機における臨床社会学――』世織書房、畠中宗一編 2000 『臨床社会学の展開』(現代のエスプリ 393)至文堂、畠中宗一 2000 『家族臨床の社会学』世界思想社、宮原浩二郎 1998 『ことばの臨床社会学』ナカニシヤ出版。
(2)なお、『実践』は、『すすめ』の続編として位置づけられている(『すすめ』ii頁)
(3)これらは「方法としての臨床」、「対象としての臨床」としてまとめられる(『すすめ』13頁)。
(4)『実践』172頁の立岩の記述をもとにすれば、このようになるであろう。
(5)たとえば、「社会学のオリジナリティを主張するためには、医学や心理学と同じ土俵の上で違う相撲をとってみせることが重要である」(『実践』21頁)という具合に。
(6)ここでも治療(cure)と気遣い(care)の差異という医学的なことがらがベースとなっている。
(7)このことについては、精神医学を題材として取り上げた拙稿において幾度か言及しているのでご参照いただきたい。