年報筑波社会学,第8号(1996),25〜44頁.


身体がいま-ここに在るということ

――身体の社会性の基底をめぐる一考察――



周藤 真也



【目次】
1.問題の所在
2.分裂病者の身体性
 (1)身体の過剰――すべてがいま-ここの身体
 (2)身体の不在――すべてがいま-ここであることの完成
 (3)身体の偏在――そこに在る自らの身体
3.空間の分化――そこに自らの身体が在る可能性
4.社会性の発現と身体
5.身体の社会性と〈私〉の凝結
6.身体という形式――結びにかえて



1.問題の所在

 社会を構成する根源的事物として身体が措定されるということは何を意味しているのであろうか。社会が構成される上でわれわれの身体的存在が重要な鍵を握っているということは疑いようのないことであるとしても、その一方で身体に対する言及の傍らにはいつも大きな落とし穴が待ちかまえているように思われる。それは、他者の身体があたかも「客観的物体」としてそこに在るものとして指し示せるがゆえに、身体を安易に語り得ることに存している。他者の身体がそこに在るということが社会の身体的構成を容易にしているとともに、その一方で、そのことは身体の社会性を探究していく上での障碍にもなるのである。
 したがって、身体の社会性を考える上では、われわれは身体の語りにくさを見出し、その語りにくさを語るということから出発することも必要ではないかと思われる。そのために、本稿においては、素朴に他者の身体がそこに在るというよりも、むしろ他者の身体がそこに在るものとして指し示すことのできない事態から考えをはじめてみたいと思う。この意味において本稿は、身体の社会性を構成的に論ずるというよりも、身体の社会性の基底を明らかにすること、すなわち身体の社会性とは如何なるものであるのか、身体の社会性は如何なるものとして如何ように立ち現れるのかということを論ずることを意図している。つまり、本稿は身体を考えることを通して、社会の臨界を明らかにすることを意図しているのであり、社会はどこからどういうものとして立ち現れてくるのか、それが身体とどう関わり合いながらそれぞれが生まれ出づるのか考えていきたいのである。
 身体の社会性を取り扱う際に、そのような身体はそれぞれがいま-ここを構成しているということに着目することにしよう。いま-ここを構成するそれぞれの身体は〈私〉を凝結せしめる。〈私〉の身体は時空の構成を秩序づける上でのゼロ点となるのであり、〈私〉の身体はいま-ここを負い、いま-ここを構成することになる。
 この世界のなかで私の身体が占めている位置、すなわち私の実際のここが、私が空間のなかで自らの相対的位置を占める際の出発点である。私の実際のここは、いわば私の座標体系の中心であるゼロ点なのである。私は、私を取り囲んでいる環境の諸要素を、自分の身体との関係において、右と左、前と後、上と下、近くと遠くなどといったカテゴリーのもとに分類する。また同じように、私の実際のいまは、あらゆる時間パースペクティヴの原点であり、私はそれに基づいて、世界のなかの諸々の出来事を、事前と事後、過去と未来、同時性と継起性などといった諸々のカテゴリーのもとに組織化する。 [Schutz, 1962=1985:29](傍点原著者)(1)
 このいま-ここを構成する〈私〉の身体への着目は、そこに在る他者の身体に対して〈私〉を凝結せしめるという意味において、他者の身体と〈私〉の身体を分かつ結節点になっている(2)。だが、フッサール(Husserl, E.)が「それ自身に振り返って関係するものとして」〈私〉の身体を見出すように、身体は反省的にいま-ここに在るものとして気づかれ(再発見され)ることによってはじめて、その身体はほかならぬ〈私〉の身体としていま-ここに在るのである。このことは、〈私〉の身体がいま-ここに構成されるためには、われわれが「振り返る」、「気づく」、あるいは「再発見する」という語で表したような契機がなければならないことを意味している。このような偶然性に左右されるような契機がなければ、われわれはいま-ここに居るとしても、いま-ここに在るものとして〈私〉の身体を発見することはないのである。つまり、〈私〉の身体がいま-ここに在るとしても、そのこととその身体がほかならぬ〈私〉の身体としていま-ここを同定するように構成されることとは全く別の次元に属しているのである。
 このことは、社会の臨界として、自ら(3)身体が〈私〉の身体としていま-ここを構成してはいない領域があることを暗示しているだろう。本稿ではこのような領域の事例として精神分裂病(以下、分裂病)の病理現象と寛解について取り上げ、これらの事例を通して身体が〈私〉の身体としていま-ここを構成しているという身体の社会性の基底を明らかにしていきたいと考えている。分裂病者がおかれている事態は、まさに自らの身体が〈私〉を凝結できないでいる事態を示している。分裂病者の身体は確かにいま-ここを構成している。だが、すべてをいま-ここに在るものとして構成しようとする分裂病者の身体性、分裂病者の「世界」はそこをここに変換してしまい〈私〉を凝結することがない。分裂病者の「世界」の構成のされ方は、それを指し示す契機という別の支点を抹消してしまう性質をもっているのである。
 われわれの自生的な営みは、潜在的にはその別の支点を同定しようとする営みでもある。その同定する営みは、別の支点を見出せない範囲内において、つまりはそのような契機を経験しない範囲内において、自らそのものを同定しようとする営みともなる。分裂病者の様態が示しているのは、まさにこのような事態である。分裂病者の示すそのような営みはすべてを自らの身体とするような傾動を示し、すべてを自らの身体としてしまう。その結果として、自らの身体がいま-ここに在るとしても、それを指し示す可能性をもった身体的な存在も同じ自らの身体としてしまう以上、同じいま-ここに在ることになってしまいその存在は抹消されてしまうのである。
 身体がいま-ここに在るとするならば、それを指し示す身体は必然的にいま-ここにはない。そのことが身体をして〈私〉の身体としていま-ここに在ることを可能にする一方で、身体のいま-ここは必然的に誤るのである。われわれは、後者の様態が現実のものとなる分裂病の事態から確認する。さらに、分裂病者の寛解の事例から、どのようにして自らの身体が〈私〉の身体として凝結するのかを捉える。こうして、われわれは分裂病の病理現象と寛解の事例から、身体が〈私〉の身体としていま-ここに在ることの基底を明らかにしていこうと思う。
 分裂病の事例を用いることによって明らかになることは、身体がいま-ここに在るものとして構成されるということは、ある飛躍を伴った現象であることである。そしてその飛躍の中に身体の社会性の根源が隠されている。身体が〈私〉の身体としていま-ここを構成するとしても、それがほかならぬ〈私〉の身体でなければならない必然性はどこにもない。だが、分裂病的な自生的私性が身体性をもった〈私〉を作り上げるとき、それが可能なものになるその瞬間で、分裂病者は他者に遭遇していることも事実である。その過程を分裂病的な身体性と「世界」構成の基底から追うことで、社会の基底はどこに存しているのかを明らかにしていきたい。


2.分裂病者の身体性


 分裂病者の「世界」は無限性とゼロ性が交錯し、「世界」という形式が安定的には成り立たない世界である(すなわちそれは世界ではない)。このことは分裂病者に対して存在をめぐる不安定性をもたらしている(4)。このような分裂病者の様態において、分裂病者の身体性は、次の三つに分類し整理して考えることができるだろう。無限へと方向づけられている「(1)身体の過剰」――この場合、すべてが自らの身体となり、したがってすべてが身体のいま-こことなる。すべてが自らの身体となるその瞬間に反転的にもたらされる「(2)身体の不在」――すべてが自らの身体となりえた瞬間、身体を同定できなくなり、結果として身体も身体のいま-ここも消滅する。(1)身体の過剰と(2)身体の不在を両極として(1)−(2)からの剥がれとして位置づけられる「(3)身体の偏在」――そこに自らの身体がありうることが示される現象である。この現象は、分裂病者の自生的私性に経験を形づくる(あるいは分裂病者が現に経験している経験そのものであるともいうこともできる)ものであるとともに、分裂病的な「世界」と「正常」な世界の臨界をなす現象としても見出される。

 (1) 身体の過剰――すべてがいま-ここの身体

 重篤な分裂病者は、稀ならず身体内空間に病院や地球や太陽などが入ってくることを訴える[渡辺,1982]。さらに、このような分裂病者の身体的存在の様態は、宇宙をも呑み込むことがある。
 ある分裂病者S・Kは次のように訴える。
宇宙に入れられている方でもあるし、逆に、地球も太陽も頭の中にあるような……。私は総本山みたいなものだから、無限……。全宇宙が頭の中にあって、抱きこんでる。巨大な存在。全宇宙はボクのもの。[渡辺,1982:152]
 このような分裂病者のパースペクティブは、身体を無限に拡張させることによって達成される(5)。その結果として、このパースペクティブは身体から宇宙空間へと拡がっている通常のパースペクティブを逆転させたものとして認められる。このパースペクティブにおいて、全宇宙が自らの身体であり、全宇宙がいま-ここを負い、すべてがいま-こことなる。

 (2) 身体の不在――すべてがいま-ここであることの完成

 すべてがいま-こことなるパースペクティブは、身体を無限に拡張させたものであると同時に、身体から宇宙空間へと拡がっている通常のパースペクティブを如実に示すことにもつながっていく。なぜなら、すべてが自らの身体となるその瞬間に、その身体を指し示す視角がなくなる以上、もはやそれは自らの身体としては同定できなくなるからである。このことは、自らの身体を再定置していく傾動が発現するところになるのだが、それに至る際に自らの身体がなくなる瞬間を認めなければならない。
 このような身体不在の様態は、身体の過剰の様態への傾動と共働する。分裂病者の無限性への希求は、すべてを自らの身体にする分裂病者の「世界」を構成するとともに、自生性のもつ運動性を基盤としている。このことが顕著に現れ出るのは、分裂病者における身体的運動性を伴った行動である。渡辺哲夫の症例Sにおいて、無限性への傾動は「トグロ巻き」という円環常同運動となって現れていた[渡辺,1986](6)。「トグロ巻き」とは、半径2〜3メートルの円を描きながら時にはゆっくりと、時には小走りで歩き回るという身体的運動である。この運動の最中において、Sの目前には次々に新たな物体が飛び込んでくるとともに、知覚された物体は次々に後方へと飛び去って知覚されなくなってしまう。このとき、Sにはあたかもすべての物体が自らの身体へと繰り込まれていくかのように感じることができる。それとともに、自らの身体はその拡張を無限性の中に解消させて消滅してしまうと感じられる。つまり、この「トグロ巻き」という身体的運動において、Sはすべてが自らの身体であるというリアリティと身体が消失してしまうリアリティを同時に体験しているのである。
 このように、身体の不在の様態は身体が消失することによって、すべてがいま-ここであるとする分裂病者の身体性の様態を完成させる。だがそれと同時に、もはやすべてがいま-ここである以上、何らの事物も(もちろん何らの身体も)存在しないのである。

 (3) 身体の偏在──そこに在る自らの身体

 だが、こうした身体の不在の様態は、それが常態化することによって、自らの存立基盤を崩すことになる。なぜなら、身体が消失してしまい、事物が消失してしまうことによって、自らが準拠するところが何もなくなるからである。その結果として、次の分裂病者I・Sにみられるように一瞬一瞬において自分を探すという自分探しの行為が生まれ出ることになる。
 歯を入れたら自分がそこ(欠けた歯の位置の意)になるような。鏡にむかうのが楽しみで、自分と合ってきた(合致の意)のようで。実はボクの鼻。ボクの人間としては、両脚だったんですよ。オレはここ(左耳をつかみながら)……もうここには居ない、どうもこの辺(I・Sのカルテ)にあるんです、自分が。やっと見つけましたこのベルトのバックルだったんです。(ビニール袋に尿を排泄し)目標が、未来の自分が出ました! おしっこでした。(手掌紋を示しながら)この先がボクの場所、現在居る位置です、人生の位置です。……脳がちょっと現われないと……[渡辺,1982:142-3]
 だが、このような自分探しの行為はいま-ここを自らならざるものに見出すことになる。そこでは、いま-ここから空間が対象化され、そこに自分を発見することになる。だが自分を位置づけるそことは、分裂病者にとってはここでもある。I・Sは次のように語る。
物に行く、いろんな物見つけて、ここだなと思って、ちょっとの間は大丈夫なんですけどね。(ここって?)外全部ですねえ、長続きしなくて崩れちゃう、それの繰り返しで。[渡辺,1982:143]
 分裂病者が自らを位置づけていくときに特徴的に現れるのは、そこがここであるような事態、つまりそこに自らを見出し、それを自らの身体にする現象である。このことは、先にみられるような自分探しという行為に現れた場合、探す対象がまさに自分であるがゆえにそこをこことして自らの身体が在り、そこに在るものをここに在るものとして見出し自らの身体として同定しているのである。
 このようにいま-ここを構成するはずの自らの身体を、(ここではなく)そこから見出していくような事態を「身体の偏在」と呼ぶことにしよう。本稿の議論を先取りして言えば、身体の偏在の現象は病理としての分裂病的経験と、「正常」な経験との結節点をなすことになる。そのことを明らかにしていくためには、さらに身体の偏在の現象とその基底について取り上げていく必要がある。
 だがこれは次章以降に譲ることとして、ここでは分裂病者の身体の偏在の現象について次のような特徴があることを指摘するに留めておきたい。分裂病者の身体の偏在の現象において特徴的なのは、分裂病者が何らかの形式的操作で身体が偏在していることを否定することで成り立っていることである。上述した自分探しをするI・S場合、そこをここに変換することで、そこに自らの身体があることを否定しつつ現に身体が偏在することを成り立たせていた。
 上述のように、本節において分裂病者の身体性にみられる様態を、(1)身体の過剰、(2)身体の不在、(3)身体の偏在、の三つの形態にまとめ、それぞれの形態について症例を示しながら説明を加えた。この中で次節においてはさらに身体の偏在について精査した上で、これら三つの形態がどのように構成されており、身体の社会性の基底はどこに存しているのかを明らかにしていきたい。


3.空間の分化──そこに自らの身体が在る可能性

 身体の偏在が分裂病者の経験として語られることは奇妙な位置をしめている。それは身体の偏在が前節でみた(1)身体の過剰−(2)身体の不在の現象に対して、自らの身体がいま-ここに在ることを構成していく傾動を含みもちながらも、構成していってはいないところに存している。前節でとりあげたI・Sの自分探しの行為は、一見「同一性の危機」に際して、いま-ここに在る自分を再構成するべく働いているかにも思える。しかし、よくよく見てみれば、I・Sの行為は自らの身体を〈私〉の身体としていま-ここに構成していくのではなく、実はそこに構成していっているのである。I・Sの行為が分裂病の領域に組み入れられるのもまさにそのことに存している。
 われわれはすでに身体の過剰と身体の不在とが同一の事態の二側面であることをみてきた。そうすると、分裂病者の経験として語られる身体の偏在は、身体の過剰−身体の不在の現象からのズレであるといえるだろう。身体の過剰の事例や身体の不在の事例に対して、身体の偏在の事例において決定的に異なるのは、そこが在ることが可能になっているということである。身体の偏在には、次の二つの働きが付随しているのである。ここではないそこを同定する働きと、身体の過剰と身体の不在を分断する働きである。
 このことを明らかにするためには分裂病者の身体の偏在についてもう少し詳細にみておく必要がある。その際、重要なのは、身体の偏在の現象が分裂病者の経験において往々にして言語化できないところに存しているということである。身体の偏在は、そこに自らの身体が在ることを暗黙裡に取り去ることで成り立っている。この経験は分裂病者の場合、そこを否定し、そこを同定できえない以上、自らの身体がそこに在ることが分裂病者自身によって直接に語られることはない。つまり、分裂病者の場合、そこを対象化しないままで、そこを取り去っているのである。
 このことは、分裂病者の妄想に如実に示されている。木村によれば、分裂病者の病的体験に登場する他者は、パラノイア型妄想のように「絶対的かつ全面的に既知の存在」といった存在様態をとるのではなく、「自己の最も内面的な部分、いわば自己の中心部に、自己存在そのものの自己性を根本から疑問に付すような仕方で出現してくる」[木村,1991:194]という。「そういった外部的な他者は、むしろなにか正体の知れない秘密組織のメンバーとか、絶対に真意をつかめない影の人物の手先とかいう形で、絶対的な未知性ないし不可知性を帯びている」[木村,1991:195]のである。木村はこのような分裂病者の妄想にみられる内面的他者は、「他者」(der Andere)としての具体性をもたない「他」(das Andere)そのものであると分析している。
 このような分裂病者の他性の様態をわれわれは抑圧として捉えることができるだろう。分裂病者の妄想の様態からわかることは、分裂病者は何か得体の知れないものから抑圧されているということである。その得体の知れないものとは「他」そのものである。そして、その「他」そのものは具体性をもたないがゆえにそれとして対象化することはできない。その「他」そのものはそこに在るものとして指し示すことはできないのである。だからこそ、分裂病者はそれを十全と語ることはできず、それでもなお何かを語ろうとするとき、それは妄想という形態をとって立ち現れてくるのである。
 木村は、このような分裂病者の妄想のあり方を理解するためには、「自は『他ではないもの』としてはじめて自として成り立つ」という見方が必要であるという(7)。だが、「他」そのものに言及する際、次のような重大な問題が生じてくる。なぜなら、「他」はなによりもまず「自ではないもの」であるからである。その結果として、「自」は「『自ではないもの』ではないもの」としてはじめて成り立つことになってしまう。分裂病者の「世界」を構成しているのは、まさにこの操作である。この操作によって、「他」は「自ではないもの」として「自」の構成へと変換され、「他」が消失する構成をとることになる。したがって、分裂病者が抑圧されているその対象とは、「他」そのものとして「自ではないもの」であり、つまり分裂病者は自らならざるものを構成する自らによって二重に抑圧されているということになる。分裂病者の場合、自らの存在そのものが抑圧になってしまうのである(8)
 これらのことは、身体のいま-こことどのように関わっているのだろうか。われわれがみてきたI・Sの自分探しの行為は、二重の抑圧の結果として自らならざるものとしての自らそのものをそこに見出し、そしてそれをここに変換していたのであった。このことは、すべてが自らの身体であるならば(すべてがいま-ここであるならば)、そこが見出されるとしてもそこはここであることがあらかじめ保証されているということの帰結なのである。
 したがって、このことは身体の過剰−身体の不在の軸から身体の偏在の現象が現れ出てくることを示している。I・Sの行為において、このことが現象という形態をとったのは、このことが自らならざる何ものかに対するメカニズムとして立ち現れていたことに存している。つまり、そこがここに変換されるという事実は、具体性をもたない抽象的なものに対して働いているのではなく、具体的なそこに在る事物に対して働いていたのである。したがって、身体の偏在の現象は、身体の過剰−身体の不在の軸からの剥がれとして分裂病的私性に経験される。自らならざる何ものか──すなわち「他」──がほかならぬ自らならざるものとして同定されるということは、このような剥がれの経験と言わざるを得ないのである。
 身体の偏在は、すべてがいま-ここからそこという新たな場所をもたらしていた。このことはいま-ここに対して、ここ−そこという軸を成立させていることを意味する。この軸は、時間と空間が混然一体となったいま-ここから空間が分化していくことを意味しているだろう。つまり、自らならざる何ものかが在るということは、何らかの空間が成立しているということでもあるのである。そしてそれは、単に時間と空間とが対称的に二分されるということではなく、そこが可能になるという空間の分節化によって空間が分化することを通して、宇宙が分節化するのである。
 身体の偏在は自らの身体ならざるものとしての事物の存在を可能にする(あるいは他者の存在を可能にする可能性をもっている)というところで、分裂病的「世界」と「正常」な世界との臨界を為している。われわれは、I・Sの行為をそこに自らの身体が在る可能性を示すものとして受け取ることができよう。だが、I・Sの場合、そこをこことして扱うことで分裂病の領域にとどまっていたのである。つまり、そこに自らの身体のいま-ここを見出していたのである。われわれはこのことよりさらにそこに在る何らかの事物が自らの身体のいま-ここではないことはいかにして可能かということを問うていかなければならないだろう。


4.社会性の発現と身体

 前節までで身体の偏在から解明されたことは、自らの身体のいま-ここからそこという空間が対象化されうるということであった。だが、分裂病的な「世界」において、そこはそことしての身体性をもったものとしては成立していなかった。つまり、そこに自らの身体がある可能性は、可能性としては保持されつつも潜在的な領域にとどまっていることによって抹消されていたのである。分裂病的な現象にみられる身体の偏在はそこを対象化することで空間が構成されていき、空間が分化していくとしても、そのようにして構成される空間は、いわば平盤な空間、幾何学的にいえば厚みのない平面で表現されるような空間にたとえられるであろう。分裂病的な身体の偏在は時制をもたない、あるいはもつとしてもいましかない時間というべきものなのである。
 われわれがいままで述べてきた分裂病的な「世界」の構成のされ方は分裂病の寛解においてどのように解体されるであろうか。本稿においては、ある精神療法を題材として捉えてみることにする。だが、そこで明らかになることは、寛解の瞬間において分裂病的な「世界」の様態は、解体されるというよりもむしろ完成されるということである。このことは、分裂病的な病理現象が、「正常」な経験の臨界に位置しているということを意味している。
 分裂病の精神療法のひとつにシュヴィング的接近法(9)というものがある。この療法とは、「病者の傍らで、治療者が何も語らず、静かに沈黙して過ごす」というものである。松尾正は、この方法を用いて分裂病から寛解に導いたひとりの患者・田中太郎(仮名)の症例についてとりあげる[松尾,1987]。松尾が彼に対して施した治療的状況と呼べるものは、ただ黙って彼と一緒の時間を過ごしたことだけである。松尾は治療的状況としての“沈黙”に焦点をあわせる。入院当初は、この“沈黙”は、まったくの「拒絶的沈黙」であり、松尾の存在自体を拒否しているかのようであった。だが、しばらくして松尾は「彼を自らの意識の対象として関心を向けさえしなければ、何となく彼の傍らにいることが許されるような気がしてきた」[松尾,1987:29]という。松尾はこのような“沈黙”を「非対象化的無関心的沈黙」と呼び、「拒絶的沈黙」のなかにしだいに「非対象化的無関心的沈黙」を置くよう心掛けていくことによって、“沈黙”は「非拒絶的沈黙」に変化し、彼の「傍らに居ること自体」が許容されるようになったという。さらに、松尾はこのような「非拒絶的沈黙」の中で彼の自発的自己表出の発現を待っているうちに、“沈黙”の中で彼を何かから“保護”しているように感じ、「非拒絶的沈黙」は「保護的沈黙」へと変化していったのである。このような経過を通して、田中はしだいに自発的自己表出が可能になっていった。最終的には治療者・患者としての意図性が極度に消失した雰囲気、気分で田中に対して“ぞんざい”で“なれなれしい”振る舞いが可能になり、田中は自発的に長い文章型の言葉を発することが可能になった(10)
 このような田中の寛解の瞬間において、一体何が起こっていたのだろうか。田中の寛解においてもっとも重要な契機となったのは「非対象化的無関心的沈黙」、すなわち治療者の意識が病者を意識の対象として関心を向けず、病者と関係ないものを対象としたり、またはただ治療者自身の思いに耽りながら、かつ病者と共に居る状況である。この沈黙は、単に「言葉を発しない」というだけの状況ではなく、「おそらく治療者も病者も同じような意識様態に居るという意味で、相互的共同的な事態と考えられる」[松尾,1987:33]という。松尾は、このように沈黙によって達成された治療者と病者の関係を存在論的な意味における同調として捉える。これをわれわれは松尾の言葉をもとにさらなるもう一つのいま-ここ、すなわち「共同的ないま-ここ」とおくことにしよう。田中の寛解は、この共同的ないま-ここを介してのものであった。そうすると、この共同的ないま-ここは、田中の世界においてどこに位置していたのであろうか。
 このことを考えていく上で、われわれはこの共同的ないま-ここが、どのようにして成り立っていたのかを検討しておかなければならない。松尾は、「非対象化的無関心的沈黙」によって、「非拒絶的沈黙」が「保護的沈黙」に変化していったという。この“沈黙”は田中と松尾の間の共同的ないま-ここを成り立たせている構成物である。だが、そうでありながらも保護的であるという意味において全面的に松尾に依存する“沈黙”でもある。このことは、松尾が指摘しているように、寛解の場面において、共同的ないま-こことそれを成り立たせている治療者の存在とが同一性をもって現出していることを意味している。つまり、共同的ないま-こことは、治療者の存在が成り立たせている病者と治療者のいま-ここであるのである。
 田中の身体のいま-ここが、しだいに〈私〉の身体としていま-ここを構成することが可能になっていったのは、この治療者の存在が成り立たせている共同的ないま-ここを転換点としているとみるほかはないだろう。病者において自らの身体のいま-ここは身体の不在の様態にみてきたように分裂病的「世界」が完成されたならば、身体は消失してしまい、決していま-ここに自らの身体を同定することはない。それでもなおかつ、病者において自らの身体のいま-ここが、〈私〉を凝結することが可能になったのは、共同的ないま-ここを介するほかはない。このとき、治療者の存在は自らならざるものそのものを負い、自らを指し示すものとして、自らと同調し、かつ自らが自らそのものであることを可能にしているのものである。この意味において、治療者の存在は、病者自身の身体を示し、病者と治療者との間の共同性を備給し、病者の身体がいま-ここに在るものとして立ち現れさせることを可能にしたのである。治療者の存在は田中の分裂病的な「世界」の臨界を成すとともに田中の存在を備給していたのである。
 われわれは田中の症例にみる分裂病の寛解は、分裂病的な身体性の完成の側面をもっていることが指摘できよう。つまり、寛解の瞬間における治療者の存在が病者の身体のいま-ここを可能にすることは、現実に治療者が存在するそこを病者のいま-ここに変換することが可能であることを意味するのである。そこに在る治療者の存在は、現実にいま-ここを成り立たせるものとして現出している。しかしこのようなそこをここにする変換は、もはや分裂病的な「世界」の構成形態をとってはいない。なぜなら、分裂病者の身体性でもって自らを拡張していかずとも、現にそこがここに変換されることが現れ出ているからである。そうであるからこそ、田中は分裂病的な「世界」把握を強化するわけではなく、ほかならぬ「正常」な世界との臨界を越えたのである。
 治療者の存在は、共同的ないま-ここを可能にすることを通して、病者の身体のいま-ここを可能にし、病者に〈私〉を凝結させる契機を与えた。寛解の瞬間において、治療者−病者の共同性と病者の身体の身体性とが、治療者の存在と病者の身体とが完全に一致していた。そしてこの場面において、治療者の存在が病者のいま-ここを可能にしているのも、病者がおかれている状況がいま-ここを示すものであるということも、決して顕在的な形式をとって対象化されてはいなかった。それでありながら、いやそうであるからこそ、治療者の存在はそこに在るものとして潜在的に対象化することを呼び起こしていたのだし、病者の身体がいま-ここに在ることも潜在的に対象化することを呼び起こしていたのである。
 沈黙は病者の身体が現にいま-ここに在ることを可能にするのに重要な役割を果たした。治療者の沈黙は「『病者を意識対象として意識しない』ということを意識」するという治療者の意識を特に意識せずとも自動的に達成することが可能である。これによって、病者は決して治療者によって治療者のそことして対象化されたと感じられることがない。このことは、すべてを自らにしようとする構成をもつ分裂病者の「世界」のなかで、自らを表そうとはしない「他」になるからこそ、いわば無の存在として存在が許容されうるのである。そしてこの結果として、治療者の存在は、いま-ここには変換されないものとして、対象化されないままそこに在ることが可能になるとともに、無の存在(ゼロ存在)として病者の身体のいま-ここを構成していったのである。
 さらに、これらのことがわれわれが今までみてきた分裂病的な現象にみられる身体の偏在と決定的に異なるのは、治療者は、潜在的で対象化されることはないとはいえ、現にそこに存在していることである。このことは、治療者の属する時制に対して次のような帰結をもたらしていよう。治療者の存在は、いま-ここに変換されることが可能となっているそこであるとともに、いま-ここに変換され得ないことを潜在的に対象化しているそこなのである。田中の寛解の場面において、治療者の存在がいま-ここに変換される側面は、病者と治療者とが織りなす共同的ないま-こことして、治療者の存在も同じいまにいるとともに、治療者の存在がいま-ここに変換されない側面は、基底的私性の身体性がもつ時間性から決定的に逸脱した異次元性を指し示しており、絶対の外部に位置する「絶対のそこ」なのである。
 田中の寛解における治療者・松尾の身体は、分裂病的な「世界」における自らの存在をめぐる不安定性に対して、存在でもって報応することによって、分裂病的「世界」を解体させたといえるだろう(11)。あるいは沈黙は、分裂病者の「自閉」という沈黙に対して、沈黙を処方したのである(12)。沈黙は、病者自らの存在に対して決定的に異質な存在として、治療者の存在を顕に取り出すことを可能にした。それでありながらも、そのことは決して病者に意識されることなく、潜在的な領野にとどまっていたのである。


5.身体の社会性と〈私〉の凝結

 われわれは分裂病者の身体性の様態から、身体の過剰、身体の不在、そして主として身体の偏在の現象に焦点をあててきた。われわれは、身体の偏在という現象が、われわれが存在することそのものをめぐってそのことからのズレとして現出してきており、われわれの社会的なあり方の根底をそこに見出すことができる。
 われわれは前節で捉えた分裂病の寛解を通してはじめて分裂病的事態の中から他者を見出すことができるだろう。この他者の存在は、分裂病者の身体のいま-ここに対して、決定的な逸脱として見出される。他者は、そこに居るとしても、いま-そこに居るとは限らない。この他者の時間性のいまからの決定的な逸脱──他者の属する無時間的、あるいは時間性そのものを逸した存在の様態──は、他者を自らと差異づける。
 分裂病者が分裂病的領域から「正常」の領域へと境界を踏み越してしまったことは、この治療者の存在に対してある効果を呼び起こす可能性をもつ。分裂病者が自らの属する領域を変移させることによって、自らが分裂病的領域に在るときからそこに居た治療者は、はじめからそこに居た者として再構成されることになる。つまり、治療者ははじめからそこに居る他者として気づかれるのである。
 身体のいま-ここはいま-ここにはない。身体のいま-ここはそれを指し示す自らの傍らにあるのであって、自らのところにはないのである(13)。われわれが、分裂病の事例を通して確認してきたのは、身体のいま-ここが絶対のいま-ここである様態であった。このような様態においては、身体がいま-ここに在ることは不安定であった。しかしながら、分裂病の事例が示していたのは、〈私〉の身体としていま-ここに在ることを構成することは、身体がいま-ここに在ることの一側面に過ぎないということも事実なのである。それが、他者の出現を通して〈私〉を凝結させ、いま-ここに在るのを〈私〉の身体、そこに在るのを他者の身体と同定していくことは、分裂病的な「世界」の構成のされ方がありうるということを覆い隠していくことである。つまり、〈私〉とは、分裂病な身体の偏在を隠蔽し、こことそこに自己と他者を配置して、分裂病とは異なった仕方で身体を偏在させるものなのである(14)
 このように身体がいま-ここに在るということは、身体の社会性の基底を為している。いま-ここに在る身体が〈私〉の身体として〈私〉を凝結させることを通して、〈私〉と〈私〉の身体は社会的な存在となる。そして、分裂病的な「世界」は、〈私〉の世界の内における〈私〉の存在に変成される。分裂病的な「世界」の構成のされ方は、存在そのもの、つまりゼロ存在として世界の内において抹消されるのである。
 しかしながら、〈私〉もまた分裂病的な身体の偏在を請け負わざるを得ない。〈私〉の身体はいま-こことして〈私〉のもとにあるとともに、そこにも在るのである。そして、さらにそれをもとにしていま-ここに在るものとするのである。メルロ=ポンティは次のように言う。
 身体は無限の探索の極限に在るものではなく、およそ探索なるものを拒否して、いつも同じ視角のもとで私に現前しているものである。身体の永続性とは、内世界的な永続性ではなくて、私の側の永続性なのである。身体がいつも私のもとに在り、いつも私にとってそこに在るということは、それがけっして本当には私の目の前にはないということ、私はそれを私の眼前で展開してみるわけにはゆかぬということ、それは私の一切の知覚の周縁にとどまっていること、それは私とともに在ること──こうしたことを意味しているのだ。[Merleau-Ponty, 1945=1967(1):161]
 〈私〉の身体、──それがいま-ここに在るということは、ある飛躍をともないつつ、現に在るものとして構成される。それは、〈私〉の身体がいま-ここに在るということは、疑いもなくそうであるということであり、そうであるがゆえにいま-ここに在るのである。
 身体がいま-ここに在るということは〈私〉を結節点として社会性を発現させることになる。われわれが自らと呼んできた自生的で基底的な私性を〈私〉に結びあわせていく微分の作用が、〈私〉の身体の社会性と身体そのものを形作っている。それとともに、そこにもある〈私〉の身体は社会性を負う身体(それは共同的な身体ともなっていこう)として異なる位相をもつということにもなる。このような身体は、社会性の身体として、〈私〉の身体の社会性のもうひとつの極点を志向することになる。


6.身体という形式──結びにかえて

 身体は、われわれが自生的に存在している宇宙を秩序づける中で、宇宙から切り取りはじめからその内に住まう世界の不定の形式として現れる。身体はここに立ち現れるのではなく、向こう側から突如としていま-ここにやってくるのである。この意味において、われわれは、そしてわれわれの身体は、社会性を凝縮するとともに、社会性に開かれているということにもなるのである。身体がいま-ここに在るということは、このような身体の社会性を如実に表していた。身体がいま-ここに在るということそのものの内に身体の社会性の基底は存しているのである。

<註>

(1)シュッツ(Schutz, A.)の身体に対する言及は、至高の現実としての労働の世界との関係より位置づけられる。矢田部[1994]を参照。

(2)このような〈私〉の身体がここに在り、他者の身体がそこに在るという様態は、フッサールの次のような言及の中にも見受けられる。

「わたしの身体は、それ自身に振り返って関係するものとして、中心的なここという様態で与えられる。それに対して、他のあらゆる物体は、したがって他我の身体も、そこという様態において与えられる。」[Husserl, 1963=1980:305](傍点原著者)
(3)筆者は身体のいま-ここを構成するとは限らない基底的私性の様態を「自ら」という語で示す。本稿のおいては、特に分裂病的な私性の様態を表すのに用いている。

(4)このことはレイン(Laing, R. D.)によって「存在論的不安定」と呼ばれてきた[Laing, 1960=1971]。しかし、それを「存在論的」と呼ぶことには問題があるように思われる。なぜなら、それを「存在論的」にしているのは、対象となる分裂病者ではなく分裂病者を語るわれわれの側にあるのである。むしろ分裂病者にとっては自ら(自生的私性)が存在することは問題ではない。ここで、「存在をめぐる」という表現をとっているのはこのことによる。

(5)このような身体の拡張は、マクルーハン(McLuhan, M.)のいうメディアによる逆転の現象と大いに関係している[McLuhan, 1964=1987]。だが、分裂病者においては、メディアによる身体の拡張が即座にかつ無際限に行おうとする傾動を示す。この意味において分裂病的世界におけるメディアは、それがメディアとなった瞬間に分裂病者の身体に取り込まれ、もはやメディアとしては機能しなくなるのである。

(6)筆者は、渡辺[1986]の症例Sをもとに、時間や他者を滅する分裂病者の世界の時間性、他者性の様態、身体の所在について検討を加えた[周藤,1996]。

(7)木村は、「自」と「他」の概念を基本的にどう捉えるかという際、形式的に次の二通りの観点のどちらかを出発することになることを指摘している[木村,1991:190]。 1 自があってはじめて「自ではないもの」としての他が成り立つ。
2 自は「他ではないもの」としてはじめて自として成り立つ。 (8)分裂病者の「世界」に限らず、このような存在の様態は罪責の念を作りだす。筆者はこれを「存在の呵責」と呼ぶ。

(9)この療法はシュヴィング(Schwing, G.)によって分裂病の治療に有効であることが示唆された[Schwing, 1940=1966]。中井久夫によれば「一般に臨界期以前の急性期はいかなる精神療法も、おそらくシュヴィングの方法をのぞいては有効ではない」[中井,1984:93]という。

(10)田中は、多少の曲折はあったにせよ、このような経過を経て退院に至っている。

(11)このような存在がもたらす逆説的効果は、ある事物の存在がその「事物ならざるもの」ではないものとして同定されるということを如実に表すことになる。これを「存在の逆説」と呼ぶことにする。

(12)神経症の治療における逆説心理療法と比較されたい(逆説心理療法については、[Weeks & L'Abate, 1982=1986]を参照)。家族療法の治療戦略の基本的原理は「症状処方」にある。例えば不眠症の患者に対して、「眠ってはならない」という症状そのままの指示を与えることによって治癒を導くというものである。長谷[1991]は、神経症的な「行為の意図せざる結果」による悪循環の構造をコミュニケーションレベルで捉えた。このような逆説心理療法において用いられているのは、言語的な逆説性である。それに対して、分裂病の精神療法であるシュヴィング的接近法は、存在をめぐる逆説性を用いている。これらは、他者の存在が安定的に指し示されるかの差異である。

(13)このことは、「身体がいま-ここに在る」ということが自己準拠的な指し示しになっていることによく現れているだろう。

(14)大澤真幸が身体的な志向作用(知覚、運動等)の帰属を求心化−遠心化の二重の操作として捉えたことはまさにこのことに存している。大澤によれば、志向作用の発動に伴って事象を今この座にある身体(上の一点)を近傍に配列させた相(地平構造)で把握するような自己中心化の働きを求心化作用と呼び、このとき「近傍の中心」となった身体上の点(志向点)たるところの身体が自己である。さらに、求心化作用を発動させつつあるまさにちょうどそのときに認められる志向点を他所へと移転させるような操作を遠心化作用と呼び、移転された近傍の中心(遠心点)たるところの身体が他者であるという[大澤,1988][大澤,1990]。つまり、身体的な志向作用は、志向作用を行う身体と帰属点たるところの身体とに二重化され、さらに自己の身体と他者の身体とに二重化されているのである。

<文献>

長谷 正人 1991d 『悪循環の現象学』ハーベスト社.

Husserl, Edmund 1963 Cartesianische Meditationen und Pariser Voträge, Martinus Nijhoff. =1980 船橋弘訳「デカルト的省察」『ブレンターノ フッサール』(世界の名著62)中央公論社.

木村  敏 1991 『分裂病と他者』弘文堂.

Laing, Ronald David 1960 The Divided Self : An Existenrial Study in Sanity and Madness, Tacistock. = 1971 阪本健二・志貴春彦・笠原嘉 訳『ひき裂かれた自己』みすず書房.

松尾  正 1987 『沈黙と自閉──分裂病者の現象学的治療論──』海鳴社.

McLuhan, Marshall 1964 Understanding Media : The Extensions of Man, McGraw-Hill. = 1987 栗原裕・河本仲聖 訳『メディア論』みすず書房.

Merleau-Ponty, Maurice 1945 La Phénoménologie de la Perception, Gallimard. = 1967-74 竹内芳郎 他訳『知覚の現象学』1,2,みすず書房.

中井 久夫 1984 『精神医学の経験 分裂病』(中井久夫著作集1)岩崎学術出版社.

大澤 真幸 1988 『行為の代数学』青土社.

───── 1990 『身体の比較社会学I』勁草書房.

Schutz, Alfred 1962 Collected Papers I : The Problem of Social Reality, Martinus Nijhoff. = 1983-85 渡部光・那須壽・西原和久 訳『社会的現実の問題』[I][II](アルフレッド・シュッツ著作集1,2)マルジュ社.

Schwing, Gertrud 1940 Ein Weg zur Seele des Geisteskranken, Rascher Verlag. = 1966 小川信男・船戸川佐知子 訳『精神病者の魂への道』みすず書房.

周藤 真也 1996 「時間の生成・社会の生成──〈身体〉という根源へ──」『年報筑波社会学』7:26-54.

矢田部圭介 1994 「Working World と身体──A.シュッツにおける身体の問題圏──」『現代社会理論研究』4:59-68.

渡辺 哲夫 1982 「身体の変貌──分裂病的独我性の一側面──」『思想』698:139-159.

───── 1986 『知覚の呪縛』西田書店.

Weeks, Gerald R. & Luciano L'Abate 1982 Paradoxical Psychotherapy : Theory and Practice with Individuals, Couples and Families, Brunner/Mazel. = 1986 篠木満・内田江里 訳『逆説心理療法』星和書店.

(すとう しんや/筑波大学大学院・日本学術振興会特別研究員)